70年の時を超えて。ジョージアの山奥に息づくモスクが美しすぎた

南コーカサスにある国ジョージアには、世にも奇妙な自治共和国が存在する。その名は、アジャリア共和国。同じくジョージアには、未承認国家としてよく知られるアブハジア共和国が存在する。両者とも憲法では同じような位置付けではあるが、アジャリア共和国の方は世界ではほとんど知られていない。

アジャリアは、自治共和国を名乗っているが、その主張は弱く、事実上はジョージアの支配下にある。よって、多くの人々は、ここが独立の意思を持った自治共和国とは気づかず、単なるジョージアの一部だと思っている。なにせ自治共和国と言っても、物々しい検問や国境があるわけではない。ジョージアの首都トビリシから電車で約5時間。気づけば、アジャリア共和国の首都であるバトゥミに降り立ってしまうシステムになっている。

バトゥミは黒海に面する港湾都市でもあり、リゾート地としても知られる。7、8月の夏の観光シーズンには、多くのリゾート客が訪れ、その中にはアラブ諸国からの観光客も多い。最近では、中央アジアからの直行便も出ているようで、日本人によく似た顔つきもちらほら見かけた。実際、私が道を歩いていると、見知らぬじいさんが、「カザフスタン?」などと聞いてくる。トルコとの国境に近いことから、街中には、トルコ料理屋もちらほら見かけた。もともとオスマントルコ領であったこの地域には、オスマン帝国時代の石碑などが残り、現在のトルコの影響力もちらつく。一方、ジョージアの東部は16世紀から18世紀にかけて、現在のイランにつながるサファヴィー朝の支配下にあり、東部はシーア派のモスクが多い。

ジョージアといえば、キリスト教の国として知られる。モスクなんて大してないんじゃない?と思うだろう。しかし!こうした非イスラーム圏の方が、興味深いモスクを発掘できる可能性が高いのである。そう、ここアジャリアはまさしく他に例を見ないレアなモスクが潜んでいる土地なのであった。

バトゥミは港湾エリアだが、アジャリア地域全体で見れば、そのほとんどが山である。ターゲットとするモスクは、山にある村々に点在していた。山を移動するための、容易な公共交通機関はない。それに私は運転をしないので、現地の運転手兼案内人を雇うことにした。彼の名はデイビッド。彼の愛車はトヨタで、彼はトヨタに対して絶大なる信頼をおいていた。トヨタ信者である。私の出身が「トヨタと同じ日本だよ~」というと、なぜか大爆笑。ひえっ?そこで笑う?バトゥミに来る途中の電車の中でも、乗客の1人がマジックショーがおっぱじめ、日本人なら「お~」と驚嘆するところで、観客と化した乗客たちは爆笑をしていた。ジョージア人の笑いのポイントがよくわからない。

ジョージア人の笑いのツボはさておき、今回のモスク探索は、非常に困難を極めた。フィールドが山というだけでない。アジャリアはコーカサスでもっとも雨がよく降るエリアの1つであり、私が訪れた日も前日に大雨が降り、洪水警報が発令していた。雨が降れば、山の道は悪路となる。10近くのアジャリアモスクをまわったうち、最も遠隔地にあったモスクは、標高1,400メートル付近の村にあり、車でバトゥミ から片道4時間もかかった。あまりにも悪路かつ険しい道のりなので、私が「もうダメだ!モスクはいいから、戻ろう」と弱気になる一方で、「トヨタだから、なんくるないさ!」とトヨタ信者であるデイビッドは逆に勢いづいていった。信仰は、時に人の行動を大胆にさせる。

アジャリアの山々。山ではトウモロコシやタバコの葉畑が広がっていた。この地ではタバコや茶の栽培が盛んで、アジャリアの主要産業にもなっている。家の軒先にタバコの葉をぶら下げている民家をよく見かけた。
標高が高くなるにつれ、道にはワンコや牛軍団がよく出没した。とある牛使いがハリウッド俳優並みにイケメーンなことにビビった。写真はイケメーン牛使いが引き連れていた牛軍団。

モスクにたどり着くまでに4時間。通常のモスク探索を考えると長すぎる。モスクは、人が集まる場所にあるから、誰もがアクセスしやすい市街地などにあるのが相場である。もちろん、山にもモスクはある。しかし、アジャリアのモスクたちが奇妙なのは、山奥に行くにつれ、モスクの美しさが一段と増すという点。山奥はどうせ人もいないしショボいモスクだろうという予想を完全に裏切られた。逆に言えば、山を下り市街地に近いほど、モスクの状態は良くなく、廃モスクになっていたり、保存状態が悪くなるという現象が見られた。

グレビ・モスク。標高400メートルほどの場所にあり、市街地からも近い。すでに廃モスクとなっていたが、モスク近くにはオスマン帝国時代のものとみられる、墓石が見られた。
モスクはすでに使われなくなっていたが、修復されたモスクとは違い、より伝統的な装飾の原型や色使いを確認することができた。モスクで使われているのは青と赤の組み合わせで、この地域では伝統的な色の組み合わせなのだろう。他のモスクでも度々目にした。
ジョージア語で書かれた礼拝教本。モスクの周りにはほとんど人気がなかったが、かつてこの場所にムスリムたちがいたことを実感させる。
ゴルジョミ・モスク。バトゥミ市内から車で約4時間。最も遠隔地にありながら、ジョージアで最大の木造モスク。1902年に建てられ、1989年に改築された。村の規模に反してモスクの規模は大きく、おそらく150人程度が礼拝できるぐらいの広さ。
鮮やかな色合いのゴルジョミ・モスクの天井装飾。

アジャリアのモスクたちは、あらゆる点で一般的なモスクとは異なっていた。第1にローカル感が圧倒的に強い。イスラーム建築で多用される、幾何学や植物文様は姿をひそめ、代わりに地元の独特なモチーフや装飾が大胆に使われている。これらはモスクだけでなく、トビリシ市内のキリスト教会や町中でも同様のモチーフを見かけた。そのほかに、アジャリアの山で栽培されているトウモロコシや、オスマン帝国時代の戦艦やオスマン帝国の国旗をモチーフにした壁画も見られた。

第2に、木彫り技術の存在感である。木彫り装飾はモスクを支える柱頭やミフラーブ、モスクのドアなどにほどこされており、中でも説教壇であるミンバルでは、その技術が大いに発揮され1つの芸術作品と化していた。イスラーム建築というよりも、地元の伝統技術とイスラームがコラボしたユニークな場所である。一説によるとこうした彫刻は、トルコからバトゥミ至る黒海沿岸に住むラズ人の職人によって施されたのだという。

さらに、モスクの特別感を演出するのが、地味すぎる外観と華やかな内装のギャップである。中には木材を雨から守るためか、大雑把にアルミで包まれているモスクもあった。礼拝を呼びかけるミナレットがついていないモスクもあり、ついていたとしても鉄パイプをアルミで包んだような簡素なものであった。一見すると、どれもモスクとは見えない外観である。モスクとして身を隠さなければならなかったソ連時代が関係しているのかもしれない。ミナレットに関しては、ソ連時代にすべてもぎ取られたという。

しかし、この地味な外観によって、中の装飾の美しさが一層際立つ。モスクと言われなければスルーしていたであろう。一般的にモスクというのは、ムスリムたちの集まり場なので、民家よりも大きい。しかし、アジャリアのモスクに限っては、モスクのサイズはどれもこじんまりとしたもので、民家の方が圧倒的に大きかった。

イスラームの祝日である金曜日だというのに、モスク付近の人の姿はまばらだった。出会った数少ない村人たちは、異邦人の訪問にも関わらず、誰もが好意的に迎え入れてくれた。ただそのほとんどは、男性で女性はまったく見かけなかった。1階のスペースは美しく彩られているものの、女性の礼拝スペースである2階部分はどこも廃墟の屋根裏部屋と化していた。誰も立ち入らないようで、虫の死骸などが散乱している始末である。この地域で女性が礼拝することは、ほとんどないのかもしれない。

ドゥグバニ・モスクで祈る男性(中央)。話を聞くと、このモスクのイマーム(礼拝を先導する人)であった。ソ連時代も経験しており、当時は食料庫となっていたこの場所で夜な夜な祈りを捧げていたという。このモスクは、ソ連時代に解体命令が出されたが、住民らが倉庫として使うことで、解体を免れた。地すべりにより、モスクの土台が浮き上がったこともあった。
ドゥグバニ・モスクはアジャリアの中でもっとも精巧な壁画が描かれていることで知られる。
ミフラーブ上には、レモンの木、左上には花瓶、右上には赤いスカーフが描かれている。いずれもこの地域特有のモチーフである。
イマーム用のローブとターバンが入っている。いずれもトルコスタイルであり、こうしたものトルコから提供されているのかもしれない。

ジョージア全体で見れば、イスラーム教徒は人口の10%。しかし、アジャリアでは、その数は30%近くに達する。これほどまでに、イスラーム教徒が多いのはお隣のトルコが関連している。先述したようにかつてこの地域は、オスマン帝国の支配下にあった。それまでにも、セルジューク朝やイル・ハン朝など歴代のイスラーム王朝がこの地を支配下に置いたが、この地がイスラーム化したのは、オスマン帝国の影響が強いと言われている。

オスマン帝国に代わり、この地を支配したのが帝政ロシアであり、それに続くソ連であった。それがアジャリアモスクにとって、苦難の始まりでもあった。1921年以降のソ連の出現は、この地に大きな試練を与えた。それが、ソ連による反宗教キャンペーンである。もちろん、これはアジャリアだけでなく、当時ソ連の支配下にあったウズベキスタンやカザフスタンといった現在の中央アジアも同じである。そして、弾圧のターゲットとなったのは、イスラーム教だけでなく、キリスト教も同様であった。

さて、ソ連の支配が始まって以降、この地で何が起きたのか。それまでの山間部のムスリムたちは、モスクで祈り、学校でもイスラームを学んでいた。しかし、ソ連がやってきてからというものの、あらゆる宗教活動が禁じられた。宗教学校の廃止、学校のカリキュラムから宗教科目の削除、ムスリムの女性が頭を覆うスカーフの着用禁止などが、代表的なものである。それに加え、この地域のモスクはモスクでなくなってしまった。1930年以降、モスクは倉庫や村議会、病院、博物館などモスク以外の建物として、使われるようになった。ただ、建物が残っただけでもマシな方である。聖堂のような大きな建物は、ソ連によって取り壊し対象となったが、アジャリアのモスクは民家のように規模も小さいため、取り壊しをまぬがれたのである。

一時的にモスク以外の場所として使われていたためか、アジャリアのモスク内では奇妙なスペースが共通して見られた。ミンバル横の端っこのスペースは、物置になっていたり、お茶スペースになっていたり、中にはストレッチャーなども置かれるなど、そのスペースは持て余されていた。建物とモスクの入り口の間に、土間スペースが設けられているのも特徴的だ。下駄箱や沐浴所になっているケースもあれば、お茶スペースやくつろぎ場になっているモスクもあった。

完全に家の一室と化していたモスクの土間。テーブルにはクッキーや水が置かれていた。
ソ連時代に物置や役所として使われていたアホス・モスク。入り口左右に広がる土間には、椅子やテーブルが並べられ、ロシア語が書かれたポストみたいなものが壁に取り付けられていた。

現在、生き残っているモスクたちは、ソ連時代の空白と苦難の70年を経たものである。反宗教政策が推し進められ、信仰を捨てた者も少なくはなかっただろう。70年の時を経て、もはや執着されなくなったモスクは、そのまま廃モスクへと転じた。一方で、新たに人々の手が入り、綺麗に色づけされ、装飾をほどこされ、奇跡的な生還を果たしたモスクは先に見た通りだ。

苦難を与えるのは、ソ連だけではない。アジャリアのモスクは、木造で作られており、石やレンガに比べるとそれほど長持ちはしない。今回まわったモスクのほとんどが、古びた日本家屋のような独特のにおいを醸し出していた。雨が多く、土砂崩れが発生しやすい山間部というのも、モスクが長らえるのを困難にする。日本の過疎地と同様に、アジャリアの村も人口減少が問題となっている。人がいなければ、モスクは建たない。

何より、ジョージア正教会の影響力が強いジョージアでは、モスクの再建資金や人材を集めるのも一苦労なはずだ。実際、バトゥミ・モスクはそうした問題に直面している。イスラーム教徒の人口に対して、モスクのサイズが小さすぎるため、多くのムスリムたちが道端で礼拝を行わなければならない状況が発生している。こうした状況を打開するため、ムスリムたちは新たなモスク建設を要望しているのだが、それが叶わない現実がある。一方で、先に見てきたような山のモスクのいくつかはトルコの支援があってようやく再建できたものもある。

こうした逆境しかない中、山間部の奥で、ひっそりと輝き続けているモスク。それは村人たちの、かたくなな執念と信仰心を反映しているようにも見える。人の手がかかるほど、モスクは美しさを増す。逆に言えば、美しいモスクには人の温かみの気配がある。人々が関心を失えば、建物はすぐに朽ちてしまうのだろう。アジャリアのモスクはそんな脆い状況にあるように見えた。

モスクを出ると、そこはアジャリアの山々とのんびりとした村の光景が広がる。果たしてこんなところにイスラームが根付いているのか・・・と疑ってしまうぐらいイスラームとは無縁の光景である。

その瞬間、礼拝の合図を告げるアザーンが山々にこだました。

参考資料
Islam in Adjara – comparative analysis of two communities in Adjara, Heinrich Boell Foundation South Caucasus Regional office, 2011
Wooden Mosques, Islamic Architecture of Adjara, Georgia, https://www.indigenousoutsiders.com/
Caring for Georgia’s old wooden mosques, https://www.mashallahnews.com/caring-for-georgias-old-wooden-mosques/
ティムール ダダバエフ,『記憶の中のソ連』