アッバース朝の栄華を物語る。世界最大級の螺旋ミナレット

イラク_サーマッラー_螺旋ミナレット

サーマッラーの大モスク、サーマッラー、イラク

イラクの首都バグダッド北方にあるサーマッラーはこじんまりとした町である。シーア派の10,11代イマームが眠るアスカリ廟があることから、シーア派の巡礼地としても知られる。巡礼地は人々でにぎわっていたが、大モスクには数えるほどしか人がいなかった。

サーマッラーの大モスクでひときわ目を引くのが、らせん状のミナレットである。ミナレットは、レンガでできており高さは52メートルで幅は33メートル。イスラーム圏広しと言えども、らせん状のミナレットは、めずらしい部類に入る。大モスクの他に、同じサーマッラーにあるアブ・ドゥラーフ・モスク、カイロのイブン・トゥルーンモスク。そのほかに、こうした歴史的な螺旋ミナレットにインスパイアされた現代モスクにそっと寄り添う螺旋ミナレットがいくつかあるぐらいだ。その中でも、スケールとして最大なのが、サーマッラー大モスクのミナレットである。

このらせんミナレットは、イラクの至る所で見かけた。お土産屋の置物や若者によるストリートアート、紙幣にも小さく描かれていた。どうやらイラクでは、このミナレットはイラクのシンボルのような存在で、イラクの人々もまた誇らしげに思っているらしい。

イラク土産
イラクの空港で売られていたサーマッラーのミナレットの置物
イラク紙幣
イラク紙幣に小さく描かれた螺旋ミナレット

このミナレットは実際に登ってみることができる。遠くから見ると、恐ろしげであるが近くで見ると、人がすれ違えるだけのスペースがある。しかし、柵がないので怖い。頂上付近に近づくと、サーマッラーの町を一望できるのだが、高層ビルなどはなく、遠くに市街がポツポツと見えるだけである。むしろ、目下に広がる大モスクの広大さが強調される。ちなみに、この見晴らしの良さゆえか、イラク戦争の際には米軍のスナイパー拠点にも使われたという。

イラク螺旋ミナレット
螺旋ミナレットに登る地元の人々
サーマッラーの大モスク、ミナレットは「サーマッラーの都市遺跡」として世界遺産に登録されている。
ミナレットのふもとに腰を下ろす女性
ミナレットのふもとに腰を下ろす女性

大モスクは、縦240メートル、横156メートルの空間で、今は外壁だけが残っており、内側のスペースは草がぼうぼうと生えているだけである。ミナレットからメッカの方角にあるミフラーブ へたどり着くのに、歩いて5分ぐらいかかる。とにかく巨大なのだ現在のサーマッラーの規模からは想像できない広さである。周りを見回してどれぐらいの人が入れるのだろうか、と考えを巡らす。5,000人ぐらいかと思ったが、一説によれば10万人は収容できる規模だという。東京ドームのおおよそ2倍である。

サーマッラーの大モスク
ミナレットからみたサーマッラーの大モスク
大モスクのミフラーブ
大モスクのミフラーブ。ミナレットの反対側に位置する。
モスク内から見た螺旋ミナレット
モスク内から見た螺旋ミナレット

こじんまりとした町に、なぜこんな奇妙なミナレットと大モスクがあるのか。サーマッラーは、たった50年ほどだったが、アッバース朝の首都であった。軍とバグダッド市民の対立により、836年にバグダードからサーマッラーへ遷都したのであった。アッバース朝の時代は、イスラームの黄金期でもあった。首都バグダードは、同じく9世紀の唐の長安やビザンツ帝国のコンスタンティノープルと肩を並べる、世界最大級の都市であった。当時のバグダードの人口は100万人。国を支配するカリフやその大勢の市民が暮らしたのが、今はなきバグダードの円状都市である。

メソポタミア文明を育んだユーフラテス、チグリス川に挟まれたバグダードには、海路経由で世界中の貿易船や人々が行き交うグローバル都市でもあった。アッバース朝軍は、タラス河畔の戦いで勝利し、これが紙の製法が西方へ広まるきっかけともなった。それまでの羊皮紙に代わる亜麻布による紙製法を習得したことで、アッバース朝では、急速に学問が発達した。

ギリシャ語やサンスクリット語の学術書翻訳により、もともとアラブの学問にはなかった、哲学や論理学、医学、数学、天文学といった幅広い学問も研究されるようになった。アリストテレスやプラトンといった我々がよく知る哲学者の著書もその中にはある。当時、イスラームの医学は世界最先端レベルで、バグダッドには世界初の総合病院が作られた。当時を代表する知識人イブン・スィーナーの『医学典範』は、ラテン語に翻訳され、ヨーロッパの医学学校で400年もの間、教科書として使われたという。ギリシア語からアラビア語へ。そしてアラビア語からラテン語へと翻訳された学問書が、ヨーロッパで出回ることで、近代ヨーロッパの礎となったのである。

こうしたイスラーム黄金期を物語る遺構は、バグダードには残っていない。モンゴル軍による襲来で、徹底的に破壊されてしまったためだ。学術書や文献もすべて焼き払われ、当時の人々の功績を知ることは今ではできない。一方で、サーマッラーの大モスクは、失われたアッバース朝の栄華を語る重要な語り部となっている。さらに、サーマッラーの大モスクは9世紀の姿を残した貴重なモスクの1つでもある。現存する9世紀のモスクは、チュニジアのカイラワーンモスクなどを含め両手で数えるほどしかない。

サーマッラーの大モスクでは、ただひたすら巨大なレンガを積み上げた遺構に圧倒させられる。一方で、モスク内は草ぼうぼうで、モスク内部というよりも荒地感が強かった。ぼうぼうの草を踏みつけながら、当時の面影がもっと残ってればよかったのにと思った。けれども、その後当時の面影に近いサーマッラーの大モスクに、再会することになる。それが、カイロにあるイブン・トゥールーンモスクである。サーマッラーの大モスクの生き写しのようであった。モスクを建設したのは、若き日をこのサーマッラーの地で過ごしたアハマド ・イブン・トゥールーン。彼は、アッバース朝からエジプトに派遣され総督を任せられていた。しかし派遣先のエジプトで己の王朝、トゥールーン朝を立ててしまうの出会った。その首都に作られたのが、先のイブン・トゥールーン・モスクなのであった。


参考資料
AramcoWorld,The Islamic Roots of the Modern Hospital
Tarek Swelim, Ibn Tulun his lost city and great mosque, 2015
Islamic architecture in North Africa by D. Hill and L. Golvin. Faber and Faber, London, 1976
深見奈緒子,世界のイスラーム建築, 2005