古代メソポタミアの原風景を探して。湿原に浮かぶ葦モスク

イラク南部の沼地_マーシュアラブ

中東と聞いて多くの人が思い浮かべるのは、砂漠、ラクダ、遊牧民、石油だろう。一方で、中東の土地はそうしたイメージよりも実に多様である。その1つの例が、イラク南部の湿地帯だ。イラク南部には、かつて西ユーラシア最大と呼ばれた湿原地帯が存在する。そこには、砂漠の遊牧民ではなく、葦におおわれた湿原に暮らす”湿原のアラブ人”たちがいる。アラブ人たちは、小さな木のボートで湿地帯を縫うように移動し、湿原の水辺からは、ラクダの代わりに水牛たちが顔をのぞかせている。

この不思議なイラクの湿原は、ユーフラテス川とチグリス川が合流してシャット・アラブという1つの川になるクルナから、イラク南部の主要都市バスラにかけて広がっている。湿地帯は、イランとの国境に広がるハウィーゼ湿原、中央湿原、ハマール湿原の3つに分けることができる。この地でメソポタミア文明が生まれ、湿原地帯の周辺では、ウルク、ウル、ラガシュといった古代都市国家が存在した。湿原に広がる光景は、最近になって始まったものではない。メソポタミア文明が生まれて以来、約5,000年も続いている光景である。いわばメソポタミアの原風景である。

イラクの湿地帯をいく村人
葦でおおわれたイラク南部の湿地帯
湿地の上で休む水牛達と村人
アラブの湿地
現在も湿地帯に住む数少ない住人の一人。ヘイダール氏。昔は手動でボートを漕いでいたが、今ではモーターエンジンが付いているものも少なくはない。

ところが、このメソポタミアの原風景も過去50年の間に大きく様変わりしてしまった。1970年代に行われたダムや灌漑事業により湿地帯は縮小。決定的だったのは、1990年のサダム・フセイン政権時代。湿地帯が反政府運動を繰り広げるシーア派の拠点となったことで、怒ったフセインは湿地の水を抜き、湿地帯の村を焼き払ってしまったのである。国連によれば、90%の湿地帯が失われ、1950年代に約50万人いた湿地帯住人は、2万人までに減少してしまったという。今も残る湿原地帯の周辺には、もともと湿原地帯だったという干上がった土地が目についた。

湿地帯には、イスラーム教が生まれるよりもずっと前から続く、独特の生活様式が広がっている。どこまでも続く湿地帯は、高さ7メートル以上にも成長する葦で覆われている。FAO(国連食糧農業機関)によると、1980年代半ばには、イラク人が消費する魚の3分の2近くを湿地帯の住人が供給していたという。ちなみに、イラクの国民食にはチグリス川で取れる「マスグーフ」と呼ばれる鯉の丸焼きがある(鯉というと泥臭いというイメージがあるかもしれないが、マスグーフはまったく臭みがない。詳しくはこちらを参照:チグリス川の巨大鯉を食べてみたい!イラク料理名物「マスグーフ」

鵜を捕らえた少年。湿原近くにて
鵜をとらえた少年。湿原近くにて。

人々はかつて漁業や水牛の飼育をメインにしており、特に水牛は住人にとっては欠かせない”資産”でもあった。湿原のアラブ人に関する著書を出しているオクセンシュラガー氏によれば、住民が水牛の肉を食べることはめったになく、乳を搾ったり、水牛の糞を葦と混ぜて火の燃料にしていたという。

さらに、興味深いのは、ライバル部族との和解金や、結婚の結納において資産として水牛が使われていたという点。現金主義な我々の世界からすると、いまいちピンとこない。水牛をもらっても・・・という感じである。けれども、遊牧民の世界では、男性から女性に贈る結婚の結納品として、羊やラクダが資産としての価値を発揮する。日本人が不動産や投資で資産形成をするように、ラクダを資産形成の一部としてとらえているアラブ人も現代に存在する(詳しくはこちらを参照:1頭で1億円以上のラクダも。ラクダで「資産形成」をする砂漠の遊牧民たち)。そう、湿原でのっそりと動いている水牛は、我々からすると湿原のほのぼの感を演出する演者に過ぎないが、ここの住民からすれば動く”資産”なのかもしれない。

イラク湿地帯の水牛
湿地を散歩する水牛

現代とメソポタミアを結ぶのは、湿原の風景だけではない。湿原に残る葦で作られた建物や、湿原を移動するボートも、メソポタミア時代のそれとそっくりなのである。いや、変わらないというべきだろうか。葦を使って建てられた建物の姿は、古代都市ウルクがあった時代の発掘物にも同様のものが見られる。

イラク湿地帯の様子
葦で作られた建物と、その周りで釣りとピクニックを満喫する若者達。
現在の葦の建物にそっくりな建物が描かれたウルク期の発掘物。大英博物館より。
現ウルク期の発掘物より。中央に葦の建物が描かれており、左右には水牛が描かれている。画像は大英博物館より。
マシューフと呼ばれる木製カヌーで葦を運ぶ人々
マシューフと呼ばれる木製カヌーで葦を運ぶ少年と女性。このカヌーもまたメソポタミア時代の発掘物に描かれている。

その多くは、掘っ建て小屋のようなこじんまりとしたものだが、特に大きく立派に建てられたものは、ムディーフと呼ばれる。部族の集まりなどのために作られたもので、現在ではゲストハウスや客人をもてなすサロンとしても使われている。同時に人々が集まる場として、モスクのように使われているムディーフにも遭遇した。礼拝時間になると、どこからともなく男性住民たちが集まり、祈り始めた。礼拝の方向を示すミフラーブらしきものはないが、入り口付近には礼拝用の個人絨毯、シーア派のお祈り必須アイテムであるモフルが置かれていた。壁には、殉教王子ことシーア派のアイドルであるフサインの肖像画。ムディーフの近くには、コンクリートで作られた簡素な建物があり、女性はそちらで祈るようだった。

イラク湿原_ムディーフ
湿原近くに建てられた葦のムディーフ。トンネルのようになっており、手前と反対側で2箇所の入口がある。
ムディーフの中
葦で作られた巨大な柱は圧巻。室内には天井扇風機や小さな電灯もつけられており、電気が通っている模様。手前にあるのは、「ダッラ」と呼ばれるコーヒーポット。アラブ文化において、もてなしや会合にコーヒーは欠かせない。
ムディーフで祈る人々
ムディーフの中で祈り始める人々。ムディーフ内には祈りの方角を示すミフラーブ は見当たらなかったが、人々は反対側の入り口に向いて祈っている。建物自体が祈りの方角であるメッカを向くように建てられたのかもしれない。
壁画ギャラリー。左上端にはシーア派初代イマームのアリーと殉教王子フサインの肖像画が飾られている。

何気ない光景であったが、私にとってはそれはメソポタミアとイスラームという時代を超えた衝撃のコラボであった。当たり前だがモスクと呼ばれる場所は、イスラーム登場以後にしか存在しない。しかし、ここにはイスラームが登場するよりもずっと前、人類最古の文明が芽吹き始めた頃と同じような手法で作られた建物をモスクと見立て、人々が祈っている。こんなタイムスリップ型のモスクは、他に類を見ないのではないのだろうか。

湿地帯は植物や生物の生態系だけでなく、人々の独自の文化や歴史をはぐくんできた。干からびて荒れ果てた湿原をもとに戻そうという動きは今広がっているが、この地をやむなく終われ、立ち去った人々が戻ってくることはあるのだろうか。約5,000年続いた原風景が見れなくなるのは、そう遠い話のことではないのかもしれない。


参考資料
Edward L. Ochsenschlager, Life on the Edge of Marshes, Expedition Magazine,1998
Edward L. Ochsenschlager, Iraq’s Marsh Arabs in the Garden of Eden, 2004
Simplysharing, IRAQ’S MARSH ARABS, MODERN SUMERIANS,http://www.simplysharing.com/sumerians.htm
UN news, UN underlines importance of sustainable use of Iraqi Marshlands as water resource