本当の発見の旅とは、新しい風景を探すことではない。新たな視点を持つことなのだ。–––マルセル・プルースト
ジュゴール城壁内のモスク、ハラール、エチオピア
それほど多くの国を旅行したというわけではないが、これまでで最も興味深かった場所の1つがエチオピアのハラールである。ハラールという場所を知ったのは、19世紀イギリス人探検家リチャード・バートンの本がきっかけだった。
アフリカの角と呼ばれる地域にあるハラール。古くは紅海の港とエチオピアの内陸部を結ぶ貿易の拠点として栄えてきた。フランスの詩人ランボーもまた、コーヒーの貿易商としてこの地に暮らした人物である。そのため、彼をしのぶこじんまりとしたランボー博物館があり、現在のハラールでは、ランボーの顔写真がプリントされたオシャンティなタクシーが町を行き交う。この地の人々は、ランボーに対して並々ならぬ思いを抱いているらしい。東アフリカの町外れで、天才詩人と呼ばれたランボーを見るのは、不思議な気持ちである。
ハラールから東へ100キロも進めば、隣国のソマリランドへたどり着く。こうした土地柄、ソマリ文化やイスラーム教との繋がりが強い。ハラールは、イスラーム教第4の聖地とも一部では呼ばれ 、ハラールの人口10万人のうち約45%がイスラーム教徒だと言われている。ハラールは旧市街、新市街と別れており、旧市街の中心地には城壁都市ジュゴルがあり、世界遺産にもなっている。
初めは、クリスチャンが多数派を占めるエチオピアという国において、稀有なムスリムの町をみる、そしてイスラーム第4の聖地とはどんなものか、という気軽なものだった。しかしそこはアフリカ。一筋縄ではいかない。聖と俗が入り乱れ、矛盾と混沌に頭が混乱してくるのである。
5メートルほどの高さの城壁に囲まれた城塞都市ジュゴルは、1時間もあれば回れてしまうほど小さな町。城壁内には368もの小道が複雑に入り組んでおり、方向感覚を失いやすい。一歩足を踏み入れると、不思議な感覚に包まれる。それは町が複雑に入り組んでいるせいだけではない。でこぼことした建物の外壁はカラフルに塗られており、まるでおとぎの世界に迷い込んでしまったのかと錯覚する。
城壁内では、時々「アッサラーム・アレイコム」というアラビア語のあいさつが聞こえてくる。家や店の壁にもアラビア語が書かれており、確かにイスラーム教がこの地に根付いていることを感じさせる。とはいえ、住民たちが話すのは、礼拝や挨拶で使用する程度のアラビア語である。一方でこの地の人々は、エチオピアの公用語であるアムハラ語に加え、オロモ語、ハラール語などをメインに話す。ハラール語は現在はエチオピア文字で表記されているが、もともとはアラビア語表記だった。こんなことからもイスラームの意外な関係性を匂わせてくる。
城壁内には、10世紀に建てられた3つのモスクを含め82のモスクがある。9~10世紀に建てられたモスクのうち現存するのは、世界でも数えるほどしかないから、かなり貴重と言えよう。同時に、この地にイスラームが到来したのは、かなり早かったのだろうと思われる。そのほかにも、スーフィーの寺院や聖人の墓廟も町のあちこちに建てられている。城壁内で最大規模のジュマ・モスクをのぞけば、そのほかのモスクはどれもこじんまりとしたもので、その姿もはっきりとモスクとわかるようなものではない。民家とモスクの境界線は曖昧である。
モスク自体は、ミニマリズムを追求したような出で立ちである。モスク内には10人程度が入れそうな礼拝スペースと、ミフラーブ 、体を洗う水場があるだけである。モスク内外に、細かい装飾やカリグラフィーがあるわけでもない。その姿は、延々と続く模様で壁を埋めつくし、幾何学を応用した高度な建築装飾で彩られたモスクとは、対照的である。そこには、反復性や直線はない。フリーハンドで描かれたようなシンプルな建物である。そして多くのモスクは、イスラームで天国を連想させる緑が使われているが、パステルカラーや黒、茶色などモスクカラーとしては珍しい色彩も使われている。
ジュゴルには、不思議な慣習もある。毎年、断食月であるラマダン前には、住民らにより外壁の色が塗り直されるのである。よって同じ建物であっても外壁の色が違うので、訪れた年によって違う建物のように見えるのも大きな特徴である。西アフリカのマリにあるジェンネの大モスクも毎年泥を塗り直しており、同じような慣習が見られる。
城壁都市ジュゴルは世界遺産に指定されているものの、中には売春宿があったり、町中は汚水や動物の死骸なども散りばめられており、ひとえにパステルカラーの美しい町とは言い難い面もある。それに、この辺りの住民は、近年凶暴化しており、カメラを構えたりするだけでも、いちゃもんをつけられたりすることがしばしばある。ジモティーの話によると、彼らは観光客が自分たちの写真を撮って、お金をもうけをしているのだと思っているらしい。
とまあ、ここまでが城壁都市ジュゴルの表の顔である。ジュゴルの裏の顔、それがカートである。カートというのは、覚醒作用のある葉っぱのことである。その中毒性ゆえに、国によっては規制されているが、イエメンやエチオピア、ソマリアなどでは嗜好品として流通している。
どれぐらい中毒性があるのか。ハラール市民を見ているとそれがよく分かる。道端には、葉っぱを大量に詰め込んだ袋を持ち歩くジモティーの姿が見られる。昼夜問わず、ジモティーの手にあるのは、お出かけバッグではなく、葉っぱの袋である。道端には、カートの食い散らかした葉っぱが散乱している(カートの葉っぱはすべて噛めるわけでなく、噛むのに適していない葉っぱは、ちぎられて捨てられる)。
カートは、効き目が現れるのに時間がかかる。カートを楽しむのに大体1~2時間を要する。暇人の嗜好品である。これを人によっては朝、昼、晩とやるので、働いている暇もない。もはや人をダメにする葉っぱなのである。葉っぱだからタダ同然と思うかもしれないが、これが結構高い。なにせ人をダメにするほど、ハマってしまう葉っぱだからである。
ハラールからバスで10分ほど行くと、アワダイという町に出る。ここがエチオピア最大のカート市場である。この近辺にはカート関係者がたむろしており、一般的に後ろめたいものを取り扱っているせいか、異邦人が歩く際には細心の注意を払わねばならない。
カートをヤクブーツと呼ぶかはともかく(葉っぱというと大麻のような違法薬物を連想してしまうが、どちらかというとタバコや酒に近いものだと私は思う)、カートがこの地に深く根付いていることは事実のようである。結婚の際に、大量のカートをお祝いの品として送ったり、今もスーフィーたちがカートをやりながら、踊ったり祈るんだ、という話を地元のガイドから聞いた。
昔、エチオピアのスーフィーたちが、眠気覚しと覚醒のためにコーヒーを飲んで、夜な夜な祈り踊ったことから、コーヒーが広まったという話はよく知られている。エチオピアはコーヒーの産地としても知られる。ただ、現在はカートの方がもうかるため、多くの農家がコーヒーよりもカートを作るようになっている実情もある。もしかしたら、当時のスーフィーたちは、コーヒーだけでなく、カートもやっていたのではないだろうか。
城壁都市ジュゴルが、いつどのようにできたのかはよくわかっていない。同様に、この地にいるムスリムたちがどういう経路を経てイスラーム化したこともはっきりしていない。けれども、この地には重要な歴史につながる手がかりが、散りばめられているような気がしてならないのだ。
参考資料
Hyenas in Harar, https://hararhyenas.wordpress.com/harar/
Aljazeera, The walled city of Harar in Eastern Ethiopia
Norte Dame Magazine, At home with the hyenas of Harar, 2015