日本人を虜にしたタンザニアのキルワ島。静寂の大モスクが語る島の栄華

習慣という束縛、日常という鉛のような重み、不安というマント、家庭という奴隷を振り払うと、人は再び幸福を感じる。
––––リチャード・フランシス・バートン

キルワの大モスク、キルワ・キシワニ島、タンザニア

2021年2月、タンザニアにいた。コロナが世界的に広まり始め、世界各国の国境が次々と閉ざされていった頃だ。ザンジバル島であと2週間過ごそうと考えていたが、このままではザンジバルに閉じ込められる可能性もある。というわけで、早急に島を出て、タンザニア本土へ渡った。その数日後、ザンジバルを往来する飛行機やフェリーが次々とキャンセルになった。とはいえ、タンザニアにも長居はできない。国境や空港の封鎖にともない、フライトも次々とキャンセル。タンザニアから日本への片道航空券は、7万円から40万円になっていた。フライトを逃せばもはやどこにも行けない。そんな状況下に置かれていた。

なんとか日本への航空券をゲットし、タンザニア滞在は残り数日となった。そこでタンザニアでどうしても行きたかった場所、キルワ島へ向かった。タンザニアや隣国のケニアというと、壮大なサバンナを思い浮かべるかもしれないが、インド洋に面する海岸には、先のザンジバルも含めていくつかの諸島が連なる。さらに地域を広げて、東アフリカのソマリアからモザンビークにかけて、この地域一帯はスワヒリ海岸と呼ばれている。

アフリカ大陸にありながら、このスワヒリ海岸一帯は、実はアラブやイスラームと関係が深い土地でもある。その最たる証拠を見せてくれるのが、キルワ島に残る大モスクである。タンザニアの商業都市ダル・エスサラーム(平和の家という意味だが、タクシー強盗など恐ろしい危険にあふれている)から、バスに乗ること数時間、キルワ・マソコという小さな村に着く。ここがキルワ島への最寄りの村となる。小さなオフィスで島へ渡るボートの手続きを行い、翌日に島へ出発した。

コロナのせいか、他の旅行者の姿はまったく見当たらない。ボートに乗るにあたって、乗船客は記帳しなければならないのだが、乗船リストを見ると日本人の名前がそこにはあった。たった1週間前のことである。さらに、船長の話いわく、つい最近まで日本人男性がキルワ島に住んでいたという。しかも住んでいたのは、数ヶ月とかいうレベルではなく、年単位だという。彼には失礼承知だが、どう見てもほのぼの感以外に、ここには何もない。一体、彼は何を求めてこの地にたどり着いたのか。謎は深まるばかりである。

キルワ・マソコからキルワ島へ行く道すがら

タンザニアの小さな村だというのに、やたらと日本人の形跡が多い。この場所は、日本と関係が深い場所なのかもしれない。実際に船長が、「ここ、日本の援助で作られたんだよお。いやあ、本当に大変助かるわ~」と島の船着場を披露してくれた。小さな島なので、それほど頻繁に使われている様子もない。現地の人の役に立っているなら何よりだが、一方で人気の少ない山道までもせっせと整備する日本の公共事業が思い出された。

タンザニア_キルワ島日本の支援により作られたという船着場

ここへやってくる人間は、2つの島を訪れることになる。先のキルワ島とソンゴ・マナラ島である。2つの島はボートで10分ほどの距離にある。そこにあるのは、かつての島の栄華を語る大モスク、宮殿、要塞などの遺跡である。しかし、そのどれもが雨水のせいか黒ずんでおり、建物は崩れ落ちてほとんど残骸と化している。ただ、その建物の規模から概要は分かる。今では島民1,000人ほどしかいないこじんまりとした島に似つかわしくないスケールの大モスク。そのモスクは語る。

黒ずんだモスクが語るのは、この島が最も輝いていた最盛期のことである。キルワ島は、ジンバブエからモザンビークのソファラを終着点とする金の交易ルートにあった。金の価格が上昇したことで、12世紀から16世紀半ばにかけて、豪華な支出や記念碑的な建造物の建設が相次いで行われた。モスクや宮殿もその一部である。最盛期の14世紀には、人口は1万人に達したという。1331年に島を訪れ、その最盛期を目にした大旅行家イブン・バトゥータは、「諸都市の中でも最も華麗な町の1つであり、最も完璧な作りである」と表現した。

タンザニア_ソンゴマナラ島2ソンゴ・マナラ島に到着

タンザニア_ソンゴマナラ島マングローブの中を進んでいく

tanzania_songo_manaraマングローブを抜けた先にあった宮殿。バオバブの木が宮殿を静かに見下ろしている


キルワの大モスク外観。建物はサンゴ石で作られている


コルドバのメスキータを連想させるような大モスクのアーチ列柱

大モスクをよく見ると、2つのミフラーブが見える。もともと11~12世紀に建てられたオリジナルのモスクに対し、14世紀に拡張工事が行われたためである。そのサイズを比べてみると、当時の繁栄と人口増加ぶりがうかがえる。


奥に小さなミフラーブ (礼拝の方角を示すくぼみ)が見える

そもそも、なぜこんなところにモスクがあるのだろう。現在、タンザニア人口の半数以上はクリスチャンである。けれども、このスワヒリ海岸一帯だけは異様にイスラーム教徒率が高い。

今や飛行機での移動が当たり前となっているが、それ以前は人々は陸路や海を渡って移動、交易をしていた。キルワは、海のシルクロードと呼ばれる海上交易ルートに位置していた。そこでやってきたのが、アラブやペルシャの商人だった。8世紀にはそうした商人がキルワ島に住み着くようになっていたという。こうした商人を通じて、イスラームはこの地にやってきたのだろう。

キルワ島には、大モスクの他にもう1つモスクがある。こじんまりとしたもので、大モスクよりもかなり崩れている。けれども、何気なく見やったドーム天井に意外なものを発見した。天井に埋め込まれていたのは、中国製の陶器だった。

タンザニア_キルワ島大モスクの近くに位置するドーム型の小モスク


中国陶器が埋め込まれた天井

他にも明朝時の通貨がスワヒリでは見つかっており、早い時期から東アフリカと中国が何らかの形で出会っていたことを感じさせる。島が最盛期を迎えた14世紀といえば、日本でいう室町時代である。明朝の時代、永楽帝の命を受けて鄭和が、スワヒリ海岸にやってきたのは、15世紀初めの頃である。鄭和は、その生涯で7回も航海に出ており、その最遠たる土地がスワヒリ海岸であった。彼もまたイスラーム教徒である。

イブン・バトゥータ、鄭和に続き16世紀にこの地にやってきたのは、ポルトガル人航海者ヴァスコ・ダ・ガマであった。歴史のオールスターたちがやってきた島の過去は輝かしい。

島を回るのは、1時間もかからなかった。島を歩いても出会う住民は10人ほどであった。しかし、島に残る遺跡は、静かに島の栄華と壮大な歴史を語っていた。


参考資料
イブン・バットゥータ、大旅行記 3、平凡社、1998年 
World Monuments Sites, Historic Sites of Kilwa
UNESCO, Did You Know? Kilwa Kisiwani an East African Trading Port on the Maritime Silk Roads
National Geographic, The People of the Swahili Coast